Zmatarのディスプレイ室

Zmatarさんが思いついた「何か」をまとめる場所。趣味用。真面目な文章は「志子思索文選」をよかったらどうぞ。不定期につき、読者になる意味は皆無だ!!

9年目に思うこと

今日は東北地方太平洋沖地震から9年目。震災に対する向き合い方に対して、震度6弱直撃した宮城県民が思うことがあるんだ。

 

 

この日14:46:18:01に発生したのに合わせ、全国の人達が黙祷を初めとして、祈りを捧げてくれるんだ。一人ひとりがあの日のことを胸に刻む事で、忘れ去られる心配が減るからそれはいいと思うんだ。でも、それってはっきりいって硬っ苦しい事じゃん。無論呼びかけされていてあれだけども強制じゃないし、人としての良心でもってやってるのは分かる。だが、もうその時じゃない。阪神・淡路大震災だって今は全国区での特集番組はなく、意識する人は薄れてきた。が、忘れ去られたわけじゃないじゃん。寧ろ後の代、後の代に語り継がれ継承されている。且つ、各々の時を過ごし、社会を、経済を、そして自由を加速させている。この震災もそろそろその段階になってくるべきだも思うんだ。

 ある日、父と話しあった時震災の金の話題になった。その時父は、復興の為にと渡された金を使って元の生活を取り戻すことは大事だが、その時以上に良くするのにまで使うのはどうか、という趣旨のことを言った。津波にやられ、まだ工事中の所はまだまだ支援するのは当然である。だからといってそれに甘んじていては、いつまでも国とかに金をねだるようになってしまう。つまり、震災復興からの自立を望んでいるのだ。形としては支援を受け、以て元と同レベルの生活を取り返す。でも心の中では自立して、自分たちで後はやっていこう、自分たち自身の自治を蘇らせてみせよう。そうやっていくことが1番。我々復興民は、心の中で静かに応援するにとどめよう。

 そもそも、黙祷をお願いします。って人々にお願いするようなものなのかな。祈りを捧げるも全てその人の心次第。自分が心を込めてやってあげればそれだけでいいと思うのよ。適当な100人の思いより、心からの1人の祈り。人にはその姿を見せるだけで十分。そう思うよ。

 解決すべき問題もある。まだまだ終わってない人もいる。それはかの戦争や阪神・淡路大震災だって同じと思う、心の中では戦いの止んでない人もいる。全ての問題を解決させる為にも、まずは自分の時を大切にして欲しいな。

 

 

それでも俺は被災地に寄り添うぜって人は、その時お願いします。俺もあの日を振り返りながら今日を過ごそう。

 

 あの日不幸に見舞われた全ての同士に捧げる…